昭和五十六年六月二十日 朝の御理解
御理解第五十五節 「賃を取ってする仕事は若い時には、頼んでも呉れるが年を取っては頼んで呉れぬ。信心は年が寄る程位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年有り難うなって来る。」
信心をすれば、一年一年有り難うなってくると仰せられますが、ただ、毎日参っております、拝んでおりますという信心では、有り難くなれない。お陰やら頂きますと、有り難いですけれど、それはいつまでも続く有り難いというものにはなりません。
それこそ、喉元通れば熱さを忘れる。だからシンから有り難いというものが育つ。有り難いと育って行く事。これはやはり、おかげを受けていく事だと思うですね。一年一年有り難くなっていくというのは、いわゆる信心をすればというのは、いわゆる、真の信心をすればという事になる。
まあ昨日の御理解からいうと、神の気感に適うた氏子を目指してもろうての信心、これならば、間違いなく有り難くなっていける。ね、わかい時にはそれこそ、一生懸命合楽通いも出来られた。御用も本当に普通ではとても出来そうにもない御用が出来られた。確かにおかげを頂いた。あれも成就していった、これも成就していった。ね、ところがだんだん年を取ってこられるに従って有り難いものが無くなってきた。自分がお日参りも出来ない。どんどん御用でも出来よった時分の事を思うて、ああ残念だけれども、もうこん位のこつならもう本当に合楽に朝参りを始めるとすぐ、おかげ頂きよったばってん、この頃は年を取ったけんそれが出来んから、おかげ受けられんというて嘆いておる。
一生懸命お参りも出来た。一生懸命御用も出来た。確かにあれも成就した、これも成就した。ですから、本当はお礼ばかりでよいのですけれども、そういう一生懸命参った、一生懸命御用が出来たというだけで、おかげを頂いたというのは、年を取っていくに従って有り難くなるのじゃ無くて寂しゅうなってくる。一つの問題が起きると、その方が言われる。ほんにこん位のこつならば、本気で合楽の朝参りどん始めたらすぐおかげ頂きよったばってんという事になる。もう年を取ってそれも出来んから残念な事だという老後になってしまうのです。
だからそういう信心ではいけない。本当に神の気感に適うた信心、お徳を受けていっておる事が自分ながらも感じられる。もうこれは有り難しである。それが育っていく。その有り難しに限りないおかげが伴ってくる。この心の状態で言うならば、あの世行きをする事も又、心安らかにお国替えが出来る、ああ心安しとあの世に向かって行く事が出来る程しの心。それはお徳による信心の喜び、有り難い信心をすれば、一年一年有り難うなって来るというのはそういう信心。
昨日もお話しの中にちょっと申しましたね、或る方がいついつ迄にいくらいくらの金額をどうでもおかげ頂きたい、というお願いであった。そして電話の向こうで一生懸命言うておられる。親先生、おかげ頂かせて下さいと。
私は、一千万どころではない、一千万は一億円でもお供えさせて頂きたいという願いを持っておりますけれども、商売が思うようにいかん、繁昌しないならそれも出来ません。どうぞ、おかげを頂かせて下さいというおはなしを、昨日しましたでしょう。
それが、昨日研修の前、電話がかかってきた。私は昨日申しましたね。この神様はそういうような事でおかげ下さる、沢山お供えをするから、そんならあの氏子にはおかげをやろうと言ったような神様じゃないと言いよったけれども、これは間違いのようですね。本気でその気になって言うたらおかげ頂くですばい。昨日はもうその初めてそのまあ商いに出られた。思いもかけない品物を、思いもかけないところが、おかげの泉を読ませて頂いとりますと、親先生のお言葉の中に置いたものを取るようなおかげと仰せられますが、もう昨日ですね、昨日の言葉でもうそれこそ、置いた物を取るような商いでございましたというお礼のお届けがあった。してみるとです、これはなかなか言える事じゃないです。又おかげを頂かせて下さい、一千万は一億円でもおかげさえ頂きゃお供えさせて頂きます。言えんでしょう皆さんでも。やっぱこれは、勇気がいる事です。それかち言うて神様は初めからだまくらかす(だますの意)気で言うとじゃないですからね。本気で思うちゃおるのです。おかげさえ頂きゃ一千万な一億円でもおかげ頂きたい。今日の御理解の中に若い間は賃を取ってする仕事でも頼み手があるち、そういう一つの勢い、又はもう一つの例を申しましたけども、それこそ朝参りもできた。御用もまあ普通から考えたら、ようこげな御用ができると思うようなお供えも出来られた。ところが、だんだん七十になり八十になり年を取っていくに従ってさあお日参りも思うごと出来んようになり、同時に成る程あれもこれもと確かにおかげ頂かれたです。
思いが願いがずうっと成就していったです。けれども年を取って行くに従って寂しゅうなっていった。私は昨日の置いた物を取るように頂いて、私は本気で思うとります、どうぞおかげ頂かせて下さいというその事を、まあそんな事を神様にお届けした訳ではないですけれども、まあ金銭のお繰り合わせを願わんならんから、商売の事をお願いさせてもらっとったら、昨日の言葉の中に、置いた物を取るようなおかげを頂いたと言うお礼のお届けであった。
してみると、そういう一生懸命の例えばなら御用させて頂きますという事がこの神様はだから本当におもしろい神様のち言うて昨日研修の時話した事でしたけれどもね。場合には騙されて下さる場合もあるし、場合にはそういう意気に感じて下さっておかげ下さる場合もある。
その事を電話の後にお礼申させて頂きよりましたら、あの菖蒲のあやめ菖蒲とこう申します、菖蒲の花がいっぱい咲き乱れておるところを頂いたです。私共以前お道の信心させて頂く者、御用さえすりゃあ助かる。御用すりゃあ助かるという教えばっかり頂いてきたように思いますね。だから金光教の生命は御用にある。隅田博士なんかは“信心は御用なり”というふうに豪語しとられましたね。確かにおかげは頂くようですね。御用という事は。けれどもそれは勝負、それで勝負をするのであって、御用で勝負するのではね。年々歳々有り難うはなっていかん。はあ若い時にゃああげな修行も出来た、あげな修行が出来る時にゃ本当にすぐおかげ頂いたばってんという事になって年を取って動きが取れんごとなるとね、若い時の事が残念になってくる。若い時の言うならば信心がね、もうあげな信心は出来んと思うて淋しゅうなってくる。信心は心一つでとおっしゃる。例えば体が動かんごとなっても、御神徳を頂いて有り難い、勿体ない、周囲を見れば実はお礼を申し上げる事ばっかりなのだから、有り難くなれなん筈なのに不思議に有り難くなれないで、不平不足だらだらの信心にだんだん淋しゅうなっていく年を取るに従って。だから信心をすれば一年一年有り難うなるという事は、どうでも例えば御用で勝負をする。それは場合によってはおかげ受けんならん時には、そういう勝負をするという事があってもよかろうけれども金光様の信心は言うならば、御用で信心は御用なりといったような事ではいけない、という事を改めて分からせてもらい、信心は一年一年有り難うなる。そんなら有り難うなるという事は、昨日の御理解をもう一ぺん頂いてね、気感に適うた氏子、気感に適うた日々を過ごさせてもろうて身に徳を受け、力を受けて、これがお徳であろうかと自分の心に思えるような心が育っていく。だから一年一年有り難うなっていく。これならば、はあ朝参りが出来なくなってもね、そんな力づくでの信心というものじゃなくても、それこそ心ひとつで自由自在におかげも頂いていけれる世界、しかもその心こそがあの世にも持って行ける、この世にも残しておけるという御神徳。信心をすれば誰でも御神徳が受けられると仰せられる。若い時には賃を取ってする仕事でも頼みてがあるけれども、年を取ったら頼みてがないような信心ではいけない。
一年一年有り難うなっていくという信心。それには、いわゆる真の信心であり、神の気感に適うた信心を日々願いとしての日々を頂かせてもらうならば、その上御用も出来る、その上日参も出来る。もういよいよ私は鬼の金棒的なおかげが頂けるというか約束されると思うですね。先が楽しみですね。これは今いう合楽の御信者です。若い時には本当に素晴らしい信心が出来られた、本当にびっくりするような御用も出来られた。その代わりに又びっくりするようなおかげも頂いて来た。けどもそれはどこまでも、御用で勝負をしたというのでは、菖蒲の花は実りにはならないでしょう。見事に咲くだけでしょう。これが花が咲いたら、実りになると言ったような信心を、やはり目指さねばいけないとい事ですね。 どうぞ。